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大学卒業旅行(イタリア・フランス)8日目

朝9:00バスに乗ってコロッセオへ向かう。一言、実に素晴らしい!何が?って、BCにここまでの建築技術があった事、そしてそれを実行させる権力が充分にあったという事だ。このコロッセオは一回はボート競艇も行われるほどの機能を持っていたらしい。それを考えると凄い!どうやって水を入れたんだ?
コロッセオの近くに、フォロロマーノといった神秘的な歴史を感じさせる遺跡が残っている。2000年もの前の人類が同じ場所で生活していたと考えると時代を乗り越えて同じ空気・同じ地面を踏んでいるのだなと感無量であった。

このままバスに乗りトレビの泉へ。あの、ローマの休日にも出てくる有名なコインを投げ入れる泉だ。ここは各地からの観光客が多く集まる場所でもある。丁度泉の通り沿いに最古のジェラート屋さんがあり、沢山の種類のジェラートが置いてある。俺はレモン味のさっぱりしたヤツを頼んだ。そのジェラートを食べながら、ローマの休日でオードリーヘッブバーンが髪を切ったというお店の前で写真をとった。

その足でスペイン広場まで行くがここも本当に人が多い。ここもローマの休日で有名な場所だ。映画ではオードリーがこの坂でジェラートを食べるシーンがある。今では、このスペイン広場では飲食禁止で警備員が結構厳しく取り締まっている。

ローマに来て始めてマクドナルドに入ってみる。昼という事もあって非常に込んでいる。流石はマクドナルド、万国共通で有名のようだ。ビックマックセットを頼むが有無を言わずコーラのLサイズが出てきた。L.9900日本では約700円だ。このイタリアと言う国では場所場所によって物価がかなり差がある。これは、普通のスーパーに限らず、こう言ったチェーン店でも言えて、マックもこのような観光地では結構高い。日本では幾ら場所が違ってもよっぽどの頃がない限りチェーン店は値段を変えない。本当に不思議な国だ。いや、考えて見ればこれが普通なのかもしれない。

ここで一先ず団体行動は終わり、俺等はバチカン市国まで行く事にした。ローマはバスに乗ると危険とは良く言う。結局時間もあるし歩いて行く事にした。世界で一番小さな国といわれるバチカンサン・ピエトロ大聖堂、広場は実に素晴らしい。広場は非常に広く大きな円を画く形で184本もの柱で支えられた回廊が存在する。一足早ければローマ法王の姿を拝見する事が出来たのだが、残念だった。

大聖堂を拝見した後は、バチカンをあとにしてすぐ近くのサンタンジェロ城をぐるっと探索した。理、健吾、ヒゴッチは城の中に入るというので俺等はそのままナヴォーナ広場で待ち合わせをする事にした。この広場は非常に大道芸人が多く、変なやつにつかまるところだったがどうにか切り抜けた。全部で噴水が3つもある広場だが、あまりにも多くの人で噴水が目立たない。南側の噴水で待ち合わせをしていたのでその前でやっていた大道芸人の芸を見ていた。その時だ、「キャー!」と女の人の悲鳴が聞えた。かわいそうに皆の芸人への集中はその女性の方に向けられた。どうやらジプシーにやられたらしい。その後警察が来て大変な事になっていた。本当にイタリアは恐い.常にこんな危険にさらされていては安心して生活が出来ない。

帰りも歩きでホテルまで帰ったが、途中ヴィットリオ・エマヌエーレ2世紀念堂はライトアップされていてとても素晴らしかった。トライアーノの市場もライトアップされていた。

流石にホテルまでは結構あったが歩く事でローマの土地の雰囲気を味わう事が出来た。

ローマ

【か】

・カラカラ浴場

217年カラカラ帝の命で建造された古代ローマの巨大娯楽場。総面積は約16万?、ローマではディオクレティヌス帝の浴場に次ぐ規模を誇り、一度に1600人の市民を収容した。3万?浴場は高温、中温、低音の浴室に分れ、直径30mを超える大浴槽のほか、蒸気浴の部屋、図書室、礼拝堂、劇場、スタジアム、散歩道、プールなども完備。現在でも高さ30mの壁やコリント式の柱頭、スタジアムの床の大理石、更衣室の床のモザイクが往時を物語る。


・コロッセオ

ティトォス帝時代の紀元80年頃完成した円形競技場。猛獣と剣闘士あるいは剣闘士同士の戦いに市民は熱狂した。円周527m、高さ約50m、楕円形の直径188m、短径156m。1階が貴賓席、2階が一般市民と分けられ、3階の立見席を合わせて7万人3000人を収容出来たという。東西南北に主な出入り口を配し、北口は教皇の席へ通じ、西口は剣闘士の入場門、東口からは出し物の犠牲になった支社が運び出された。2階に登ると、猛獣の檻や武器、舞台装置が置かれた地下室が見える。古代ローマの狂騒を想像させる一大モニュメントである。


・コンタンティヌスの凱旋門

コンタンティヌス帝がマクセンティウス帝に勝利したことを記念して315年に造られた。この戦いはのちのキリスト教公認に繋がる重要な物だった。レリーフは歴代皇帝の建物から移したもので、最上段の左右に2枚ずつ並ぶパネルはマルクス・アウレリウス帝の生涯を、下のレリーフは、コンタンティヌス帝の戦闘を表したもの。


【さ】

・サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会

“ローマと世界の大聖堂”と称される、ローマの司教座を置くバシリカ。4世紀に、コンスタンティヌス帝が寄贈した土地に建設された。キリスト教公認後、初の教会だった。14世紀まではここに法王庁が置かれ、隣接するラテラノ宮殿法王の住居だった。東側ファザードは1735年ごろのもの。老朽化した内部を1650年ごろに大規模に修復したのはバロックを代表する建築家ボッロミーニ。後陣のモザイクや、コズマーティ様式の床装飾もみどころ。中性の姿をとどめる付属の回廊は13世紀建造で、螺旋状の円柱を彩るモザイクが美しい。


・サンタンジェロ城

もとは139年に建てられたハドリアヌス帝の霊廟。6世紀大天使ミカエルが降り立ち、剣でペストを追い払うのを法王グレゴリウス1世が見たことから、サンタンジェロ=聖天使の城と呼ばれる。頂上には聖天使像が立つ。15世紀には教皇庁により、ヴァチカン宮殿と城壁城の通路で結ばれ、教皇の非難する要塞と化していた。現在、国立サンタンジェロ城博物館として公開。大理石の聖天使像や大砲が残る。場内には教皇の寝室や古代から近代までの武器も展示されている。


・サン・マリア・イン・コスメディン教会

映画『ローマの休日』でお馴染みの真実の口がある教会。コリント式円柱やビザンチン様式のモザイクで飾られ6世紀に建設された。嘘吐きは手が抜けなくなるとの伝説で有名な円盤は、1632年教会の外壁から発見された古代ローマ時代の井戸の蓋。


サン・ピエトロ大聖堂

4世紀コンスタンティヌス帝の命によって着工されたカトリック教の主聖堂。初代ローマ教皇、聖ペテロ殉教の地に建てられた。16世紀にブラマンテが大改築を命じられ、その後ミケランジェロラファエロ、ベルニーニなどが着工しし、120年の歳月をかけて完成。右側廊の最も入り口寄りの礼拝堂にあるピエタ像は、ミケランジェロ23歳の傑作。慈悲深いマリアの表情をはじめ、キリスト教を抱き上げる指一本までが、完璧な技術で表現されている。また、袖郎位置する玉座の聖ペテロの銅像は、アルノルフォ・デイ・カンビオ作。


・サン・ピエトロ広場

サンピエトロ大聖堂前に広がる直径約200メートルの楕円形の広場。カリグラ帝がエジプトから運んできた高さ25.5メートルのオベリスクを中心にすえ、左右から伸びた284本の柱からなる列柱回廊が広場を包み込むような印象を与える。約30万人を収容できるスケールの広場。アレクサンドリル7世の命により1656年から10年の歳月を費やして建設された。ベルニーニの弟子達が製作した140人もの聖人像が、広場を見下ろす様に回廊の上に並んでいる。大聖堂のクーポラからは、広場が一望できる。


・スペイン広場

オードリー・ヘッブバーン主演の映画『ローマの休日』でおなじみの広場の名称は17世紀に広場前に教皇庁付きのスペイン大使館が建てられたことに由来する。階段上に聳え立つのはトリニ・タ・デイ・モンティ教会。広場から教会へと続く137段のスペイン階段は、正式にはトリニ・タ・デイ・モンティ教会の階段という。バルカッチャの噴水は弱い水流を噴水するため路面に埋まっているが、それが今にも沈みそうな舟を効果的に表現している。カサノヴァが恋人とし甘い時を過ごした事でも有名。


【た】

トレヴィの泉

18世紀ニコラ・サルヴィにより完成したバロック様式のダイナミックな噴水。水源は15世紀半ばに甦った紀元前のアグリッパ水道。中央に立つ海神ポセイドンの左右の壁には豊饒(左)と健康(右)の像か飾られ、足元ではトリトンがか今の手綱を引いている。像の上の壁のレリーフには水源となった泉を処女が兵士に指し示す伝説のシーン、この伝説により水道建設を決意したアグリッパを描く。夜になるとライトアップされ、幻想的な雰囲気が漂う。

【な】


・ナヴォーナ広場

似顔絵書きや露店が立ち、大道芸人や流しの歌い手が姿を見せることもあり、夜遅くまで賑わいが続く。広場が楕円形なのはドミティアヌス帝時代の競技場跡の名残で、北側の建物は古代のトラックのカーブに沿って湾曲している。中央にある四大河の噴水はベルニーニの作。インダス、ナイル、ドナウ、ラプラタの4つの大河を表す彫像がオベリスクを囲む。背後にはボッロミーニ建造のサンタンニェーゼ・イン・アゴーネ教会が立つ。南のムーア人の噴水もベルニーニの設計。北のネプチューンの噴水は19世紀の物。


【は】

・フォロロマーノ

フォロとは公共広場のこと。カピトリーノの丘とパラティーノの丘に挟まれた窪地に広がるフォロロマーノは古代ローマの政治%経済・文化の中心であった。紀元前6世紀に入り下水道の設備が進むと、人々の集まり賑わいを見せるようになる。そこに歴代の執政官や皇帝達は神殿を築き、元老院や裁判所を置き、凱旋パレードを繰り返した。だが、ローマ帝国の繁栄が4世紀末の西ゴート族の侵入によって絶たれると、一気に荒廃する。ただの牧草地、あるいはルネッサンス期には埋もれた大理石の石きり場と化した。そんな数奇な歴史が19世紀にようやく解明され、現在も遺跡発掘が続けられている。

・パラティーノの丘

フォロロマーノの南側に広がるローマ建国の聖地。帝政時代に入って歴代教皇が宮殿を建てはじめた。その宮殿のことをパラティウムといい、「パラツッオ」(伊語)「パレス」(英語)の語源となっている。アウグトゥス帝、ネロ帝らが宮殿を建てたが、64年の火災で焼失。その後、セウェルス帝まで建設ラッシュは続いた。注目されるのはアウグストゥス帝と妻リヴィアが暮らしたリヴィア家、アウグトゥス帝のフラーヴィ宮殿など。


ヴェネツィア広場

ローマの中心にあり、フォリ・インペリアリ通りやコルソ通りなどが交差するロータリー広場。白い大理石の建物は、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。1870年のイタリア統一をたたえ、1885年から25年かけてネオ・クラシック様式で建設。向かって右手は、初期ルネッサンス建築のヴェネツィア宮殿。1455年のちに法王パウロ2世となるバルロ卿のために建てられ、16世紀半ばヴェネツィア共和国大使館となったので、この名が付けられた。宮殿にはムッソリーニが住んでいたこともあり広場の民衆に弁舌をふるった2階のバルコニーは、今も外から見ることが出きる。現在はルネッサンス期の芸術を展示する博物館。

 

・ポポロ広場

広場中央にはアウグストゥスがエジプトから持ち帰った紀元前13世紀のオベリスクが立つ。コルソ通りを挟んで立つサンタ%マリア%デイ・ミラコリー教会とサンタ%マリア%デイ・モンサント教会はバロック様式の建築。双子教会と呼ばれ親しまれている。