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龍馬ゆかりの地の旅

今日はプール体操のあと、竜馬像がある立会川と近くの浜川砲台跡へ龍馬ゆかりの地の旅へ。
それにしても良い天気!にしても暑い!
次から次へと汗がダラダラ。
立会川の龍馬像はちょっとチープな感じがした。
砲台跡地はちょっとした石が残っているだけ。龍馬はきっとここから黒船をみたんだろう。
その後、火炙用の鉄柱や磔用の木柱を立てた礎石などが残されている鈴ケ森刑場跡を通ってしながわ水族館へ。
娘は初めての水族館にちょっと緊張。
イルカのショーはおどおど。
唯一、クラゲが観ていて綺麗だったのが大丈夫だった。
品川水族館も色々がんばっているようで夏祭り企画や懐中電灯を使った水中トンネルなどをやって客や子供たちも楽しんでいた。

『龍馬像』
ペリーの黒船が江戸を訪れた嘉永6年、剣術修行で江戸にいた19歳の龍馬も、現在の品川区東大井にあった土佐藩の下屋敷に、沿岸の警備のために派遣された。立会川の商店街は、その土佐藩下屋敷から土佐藩が築いた浜川砲台への道筋にあり、若き日の龍馬が歩んだ道として高知市から龍馬像を寄贈されたらしい。この龍馬像は高知県桂浜にある龍馬像のレプリカ。

『浜川砲台』
剣術修行で千葉道場にいた19歳の頃の龍馬は1853年のペリーの黒船から江戸を守るために警備隊として藩命によりここに勤めたらしい。
浜川砲台の石と見られる20数個の石が発見され高知市と姉妹都市となったらしい。

『浜川橋』
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名づけられたこの橋は、またの名を「涙橋」と言われる
【涙橋の由来】
慶安四年(1651)、品川にお仕置場(鈴ケ森刑場)が設けられた。
ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきた。この時、親族らがひそかに見送りに きて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになった。

『鈴ケ森刑場跡』Wikiより
かつて存在した刑場。
江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)に設置されていた小塚原刑場、西の入口(甲州街道)沿いに設置されていた八王子市の大和田刑場(または中仙道の入口の板橋刑場とする説もある)とともに、江戸3大刑場といわれた。
元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われている

しながわ水族館
http://www.aquarium.gr.jp/
東京都品川区勝島3-2-1